TDM - トウキョウダンスマガジン

FREE & TaiChi 〜 己を導くチカラ 〜
FREE & TaiChi 〜 己を導くチカラ 〜
どんなに才能を持ったアーティストでも、調子の良いときもあれば、よくないときもある。「失って初めて気付く」とか「失敗して成長する」という言葉があるけれど、どちらも試練として受け入れ、乗り越えてから語れる言葉。

1990年代後半、フリーの初来日時を知る私としては、TRFや安室奈美恵が 黒人ダンサーを起用し、活躍していたダンサーの居方とは違い、彼がダンスシーンを一歩引いて見ている印象があった。取材をして感じたことだが、たぶんあれは、L.A.を離れたいと思って来日してきたという経緯の表れだったのだろう。

フリーの口から発せられる言葉にはリアリティーがある。ダンサーと振付師との違い、クレジットされることの重み、インストラクターとしての成功…。無名な時代を知っているからこそ、今再び活躍し、多くの日本人を受け入れて、ワールドワイドにダンスシーンを構築し続けている彼の生き様を嬉しく思えるし、「いろいろあっても頑張れる!」という気持ちにさせてくれる。

これまでL.A.〜日本〜L.A.と拠点を移したフリー、そして、彼の元で活動している日本人TAiCHiに行った熱意の詰まったインタビュー。

FREEFREE

●映画・テレビ
LXD-“MATCHED”Short Film/Director:CHRIS SCOTT-CHARLES OLIVER
AMERICAS BEST DANCE CREW / MTV
MO’NIQUE SHOW “OMARION”/BET
106 & PARK “OMARION”/BET
LOPEZ TONIGHT “OMARION “/ TBS
THE CRAIG FERGUSON SHOW “TYRESE “GIBSON/CBS
JIMMY KIMMEL “TYRESE” GIBSON/ABC
AMERICAS GOT TALENT / NBC ほか

●ミュージックビデオ
JUSTIN BIEBER /“SOMEBODY TO LOVE”
OMARION / “HOODIE”
OMARION / “I GET IT IN”
MARQUES HOUSTON/”GHETTO ANGEL”
THE NEW BOYZ-THE BANGZ / “FOUND MY SWAG” ほか

●ステージ・ライブ
“THE LXD” T.E.D EVENT
ACADEMY AWARDS T.V & MOVIES! 2 LIVE / “RISE OF THE CROWN”
AMERICAN IDOL VONZELL SOLOMON / ’09 MUSIC CONFERENCE
MUHAMMAD ALI BENEFIT w/TERRRY CREWS / FIGHT NIGHT
NBA HALFTIME w/TERRY CREWS / PHOENIX SUNS V.S MINNESOTA TIMBERWOLVES
TGT-“TYRESE,GINUWINE,TANK” / GREEK THEATRE / HOT 92 CONCERT SERIES
GLENN LEWIS / USA DATES /PRE-BET AWARDS SHOW
B-REAL “CYPRESS HILL” / HOLLYWOOD KEY CLUB ほか

●ツアー
JUSTIN BIEBER, OMARION, TYRESE GIBSON, BEAT NUTZ, LOST BOYZ

そのほか、WEBムービー、コンテスト審査員、海外でのワークショップ、最近では主催するクルー・KLAAMATION CREWなど幅広く活動中。


TaiChiTaiChi

18歳で渡米し、現地で本格的にダンサーとしてトレーニングを始める。 1年後、LAの有名コリオグラファー、フリー率いるKLAAMATION CREWのオリジナルメンバーとして活動を始める。同時期にフリーのアシスタントも務める。 2009年にオマリオンのシングル「I Get It In」でアシスタントを務め、もう一方のシングル「Hoodie」のミュージックビデオではバックダンサーも果たしている。 その後、2010年に入りジャスティン・ビーバーのツアーリハーサルでアシスタントを務め、元B2Kメンバー、ラズ-Bの「Thinking About You」、キャシディーの「Drumma Bass」やマーカス・ヒューストンの「Ghetto Angel」といったアメリカを代表する有名ラッパー/シンガーのミュージックビデオに出演している。 LAの有名ダンススタジオでサブティーチャーをこなしたり、クラブや舞台でのショーパフォーマンスをするなどその活動の幅は広い。 現在は、オマリオンとの新規プロジェクトに参加が決まっている。


神様からのギフト。

TDM

はじめて日本に来たのはいつ?

FREE

FREE1998年だよ。約2ヶ月だけ。
そのあとオーストラリアに3ヶ月間行ったんだ。

そのとき僕はとにかくアメリカを離れたかった。
移住したくてその場所を探していたんだ。

TDM

なぜ?

FREE

僕は、若いときにダンスで有名になってしまった。

おそらく、ダンサーのほとんどの人は、
長いプロセスを経て有名になると思うんだけど、
僕はそれを14歳で手に入れてしまった。

昔から、なんでもすぐに踊れたんだ。
「マイケルのまねをして!」って言われると、すぐにできた。
学校がはじまって、クルーを作ったらすぐにL.A.で有名になった。
何の問題もない状況だったね。

TDM

なんですぐにすぐに踊れたんだと思う?

FREE

僕にもわからないよ。
むしろ、僕は子供の頃から踊っていたわけではないし、
ダンサーを見て、笑っていたからね。
今思えばばかげているけど。

ただ、人の物まねをするのが好きだった。
ホームパーティーに行くと、ダンサーが踊りはじめて、
半分ふざけながら、その動きのまねをして笑っていたんだ。
すると、みんなは僕のことをダンサーだと思いはじめて、
「お願い!踊って!」と言われはじめた。
「いいよ、1回だけね。」と言って、
踊ってみると、みんな狂ったように喜んだ。
だから、僕は、やりたいと感じたんだと思う。

あくまで、ダンスだと考えていたわけではなく、
みんなが喜ぶようなパフォーマンスをした感覚。

でも、そういうパフォーマンスを楽しいとか、
特別なこととは思わなかった。
なぜなら、周囲の人間はみんな踊れたし、
それが普通だと思っていたから。

それに、自分達にはほかにもできることがあった。
バスケットボール、フットボール、バレーボール、
僕は嫌いだったけどサッカー、野球、水泳・・・
すべて自分にとっては簡単だったし、
それは普通なことだと思っていた。

でも、のちに本格的なダンサーたちと
過ごすようになってから気づいたんだ。
ダンスはスペシャルなものだと。

そして、18歳で本格的にプロとして活動するようになった。
Mary J Blidge (メアリー・J・ブライジ) のオープニングショーや、
R Kelly (R・ケリー)、Kris Kross(クリス・クロス)、
MC Hammer (MC ハマー) など、いろんな人のダンサーをした。
はじめての振付師としての仕事はSWVだったよ。

当時、周りのみんなはエージェンシーに入っていたけど、
僕は入っていなかったんだ。

だから、道を歩いていて、友達に会ったら、
「あれ?どこに行くの?」
「オーディションだよ。」
「僕も行く。」
って、感じだった。

「フリーは振付を習ったことあるの?」と聞かれると、
「いえ、いつも即興です。」と答えていた。

みんなは、カウントで振付を覚えるのに苦戦していたけど、
僕はフリースタイルだったので、その苦労はわからなかった。
その能力は神様からのギフトだと感じてるよ。

振付は14歳のときから自然に考えられていたし、
クルーを組んだとき、僕たちは振付やルーティンが必要だったけど、
僕にはそれができた。

そうして、僕の最後の大きな仕事は
Janet Jackson (ジャネット・ジャクソン) だった。

それが決まったとき、僕は思った。
「ついに、僕は本当に有名になれるんだ!」

でも、自分が出演していた部分はものすごく短くて、
ほとんどカットされていた。

僕は落ち込んだ。
そして、ほかの仕事を探そうと思った。
だんだんダンスも辞めていって、安定した仕事を探した。

早くアメリカを離れたかった。


FREE

FREEその時期にUsher (アッシャー) から、
プライベートオーディションがあると電話をもらったことがあった。
「しばらくどこに行っていたの?寂しかったよ。僕らは君が必要なんだ。」
と彼は言ってくれた。
しかし、オーディションは受からなかった。

そのオーディションを受けるのは怖かった。
周囲はそのとき有名になっていた知り合いのダンサー達だったし、
僕はダンスを離れてから 3年経っていた。
完全に辞めていたんだ。

そうして、L.A.を離れようと決めて、
移住のためにお金が必要になった。

その頃、僕はダンスを辞めて、美容師の学校に通っていた。
そして、自分の店をハリウッドに開いて、
たくさんの有名人の髪を切っていた。

テレビでは知り合いのダンサーが出ているのをよく見た。
店に来ると、
「フリー!まだダンスしてるの?」
「ううん。ダンスはもう辞めたんだ。」と答えた。

僕は自分に言い聞かせていた。
“ダンスよりも、こっちのほうがより多くの人のためになる”と。

でも、テレビを見ながら、
僕は自分のほうがもっといい振付ができると感じていた。
しかし、僕はそれでも髪を切り続けた。

それがよりいっそう僕を落ち込ませた。
僕は早くアメリカを離れたかった。

日本での活動、スタート。


FREE

FREEその後、オーストラリアに3ヶ月行ったのは
過去に一度、Snoop Dog (スヌープ・ドッグ) とThe Lost Boyz (ザ・ロスト・ボーイズ) のツアーでオーストラリアを訪れたことがあって、とてもクールで楽しい思い出だった。

でも、当時のオーストラリアでは事務所には登録できても、黒人が雇われる十分な仕事がなかった。

彼らは、説明してくれた。「多くの国はアメリカを好きだが、オーストラリアはそうではないんだよ。もし、一週間に黒人が2人以上映っている番組があったら教えて。きっとないと思うけど…」そう言われるくらい黒人の仕事はなかった。

今ではオーストラリアでも黒人も見かけるようになったけど、
10年前はほとんど仕事はなかった。

その後、日本に2ヶ月旅行で滞在して、
そのあとに日本に移り住むことを決意した。
仕事をするにも日本人とコミュニケーションをとるにも
日本語が必要だと思い、一度アメリカに戻って
大学に通いながら日本語を学んだ。

なによりも日本人に日本語で話すことで
彼らに対してリスペクトを表わせると思ったんだ。
そして数ヶ月後、東京に引っ越して来たんだ。

TDM

日本には何が目的で来たの?

FREE

アメリカを離れるためさ。
ただ単純に、新しい人生を探してた。
何の計画もなかった。

その時期、日本では安室奈美恵のバックダンサーで
黒人ダンサーが踊っていたし、黒人の仕事はあった。
逆に、今はほとんど見なくなったけどね。AIぐらいかな。

僕が日本に来て、最初の半年くらいは有名なテレビ番組に出たよ。
日本のダンスシーンもゆっくりと変わりつつあった。
スキルやファッションが良くなっていった。

僕はラップをしたり、モデルをしたり。
ダンスもしたけど、当時の自分に望まれたダンスは
真剣なものではなかったから、逆にできたよ。

あ、A.G.Bを知ってる?

TDM

知ってるよ。FRANK(フランク) のチームだよね?

FREE

そう、フランクはいい友達だよ。

彼のチームであるA.G.Bのメンバーは
当時みんな別々のフィールドで活動していて
一緒に活動するのはなかなか難しい状況だった。

僕はA.G.Bのみんなに言った。
「僕はみんな日本の中でも有数のいいダンサーだと思うけど、
バラバラの状態が3〜4年になっているから
そろそろ再結成するべきなんじゃないのかな。」

誰のバックダンサーをしているとか、
クラスをどれだけやっているとか、
それは仕事を振る側が決めていることであって、
誰が偉いとかそういうのは関係なく、
みんなで頑張っていけばいいと思ったんだ。
そういう思いで僕がGANGSTA BOOGIEっていう
イベントをVIETTIではじめた。

再結成のイベントでは、みんな泣き崩れるような大成功だった。
オーナーまでもイベントでたくさんお客さんがくるので驚いていたよ。
確か、オーナーの名前は小林さんだっけな。

TDM

小林さん、亡くなられたの知ってる?

FREE

え!?本当!?知らなかった・・・。
彼はいい人だった。クレイジーだったね。

TDM

そうだね。 私にパーティーの作り方を教えてくれたのが小林さんだったの。

FREE

僕に日本で最初のチャンスをくれたのも小林さんだった。

僕の考えを聞いてくれて、
「いいアイデアだと思う。僕のクラブを使っていいよ」
と言ってくれたんだ。

GANGSTA BOOGIEは2001年からはじめてとても大成功だったよ。

はじめての下積み時代。


FREE

FREEそして、またA.G.Bは有名になってしまい、またバラバラになってしまった。

しばらく活動していなかったA.G.Bに
新しい振付をフランクと僕でしたんだ。
その中の1曲はショータイムも振付したよ。

その中でも新しいスタイルの振付の大半は僕が担当したんだ。
でも、周囲の人はフランクが全部創ったと思っていた。

新しく日本に来た僕よりも
それまで日本で活動していたフランクのほうが有名だったし
、 一緒のテレビ番組に出てはいたけど、
クラブシーンで僕は無名だった。

A.G.Bはニュースタイルなショーで有名になった。
でも、それは僕のスタイルだったからだ。

それでも、僕は絶対に「あれは自分の振付だ」とは言わなかった。
A.G.Bと一緒に踊ってることが楽しかったから気にならなかった。

アメリカのフレイバー、
アメリカのリズム、
アメリカの音楽の聴き方、
ニュースタイルのダンスによって。

でも、僕にその成果は還らなかった。
日本でのレッスンはだいたい毎週7人。
たまに15人くらいになったけど、
いつも7人だった。

一度僕のクラスを体験すると
「わー!楽しい!」って思う人もいるみたいだけど、
続かないのは、きっと僕のスタイルが
みんなにとって難しすぎたからなんだと思う。

TDM

その時期はどういう気持ちが強かった?

FREE

しょうがないよ。それが人生だ。

知っている人が見れば、僕のスタイルだとわかるけど、
少し変わっているせいか、
例えば、仕事の依頼があったとしても、
お金を払う会社のトップの人は
僕のスタイルかどうかはわからない。
でも、それは仕方ないこと。

でも、今は、たとえば、OMARION(オマリオン)の1曲を
アシスタントのTaiChiが振りをつけたとする。

でも、僕の名前がスタッフにクレジットされる。

オマリオンのエージェントは僕にお金を払う。
TaiChiにじゃない。TaiChiに払うのは僕だ。

下積み時代というのはそういうプロセスになっている。
だから、あのときはそれが人生だと思ってた。

クレジットされるかどうか。


FREE

最近は僕もクレジットされない振付をしたよ。
アーティスト専属の振付師が僕を雇ったんだ。

僕は彼女より低い立場。
その楽曲でクレジットされるのは彼女の名前。
メイキングやインタビューで振付師として出るのも彼女の名前。

TDM

アーティストはどういう基準で専属の振付師を選ぶんだろう。

FREE

FREE彼らが素晴らしい振付師だと感じるから。

自分自身のダンススタイルを持っていて、素晴らしいプロフィールも持っているから。

君もワークショップをやるダンサーを選ぶときにまず、写真とプロフィールを見るでしょ?それと同じだよ。

ただ、すべてのシチュエーションは説明できないから、僕のことで話すと、さっきのアーティストの仕事はオマリオンとの仕事をやっていたおかげで実現したんだ。

振付師の彼女がオマリオンのショーを見て、
「この振付は誰?」と目に留まったから
僕に電話がかかって来た。

僕のプロフィールを彼女が見たんだ。それと同じだよ。

TDM

でも、フリーは最初からすごいプロフィールだったでしょ?

FREE

それはダンサーとしてであって、
振付師としてはオマリオンの仕事をして以降だね。

ダンサーは振付師に比べたら簡単。
世の中には何千、何万人といるしね。

振付師もいっぱいいるけど、似ているスタイルが多い気がする。

最後のチャンス…「LAに戻ろう !!」


TDM

話を戻しますが、結局、日本には、何年くらい住んだことになるの?

FREE

約4年半だね。

TDM

それから、アメリカに戻ったよね。どうして戻ったの?

FREE

アメリカのほうが日本より振付師としての
ビッグチャンスがたくさんあると思ったからだよ。
マーヴィンというアフリカンアメリカンで
日本在住のダンサーが僕に
「お前はアメリカで成功するほどのスキルがないから
日本にステイするべきだよ。日本にいれば有名でいられる。」
って言われたのが、逆に刺激となったんだ。

実際、日本でのダンサーとしてのキャリアは
特に満たされていなかった。

当時、黒人ダンサーは日本に数人しかいなかったはず。
競争率が少ないのに、日本での黒人ダンサーには
仕事がほとんどなかった。
それは、今も同じ。
日本では黒人ダンサーの需要がなくなってきている。
それでは生活ができない。
日本では自分の仕事はないと悟ったんだ。

僕のレッスンでの生徒もほとんどいなかった。
何人か僕のスタイルを好きできてくれていたけど、
変わっていたから日本で万人受けするものではなかった。

日本に住んで5年目になっても、
僕のギャラは日本のダンサーと変わらなかった。

当時から日本にいた黒人ダンサーで
日本人に人気があって、今も活躍しているのは
スティーブ・A・ヘインズだけじゃないかな。
今もミスユニバースジャパンの
ウォーキング指導などプロデュースをしてるよ。

TDM

でも、こうして話してると、フリーってなんだか日本人ぽいよね。

FREE

FREE (笑)。そうかな〜。

選ばなければ何でもできるけど、そこは現実的でなければならない。

舞い込む仕事はどんどん大きくなるべきなのに、小さくなっていった。

そして、L.A.のダンサーを見て、僕よりうまく仕事をやっていた。 帰るしかないと思った。 そして、これがダンサーとして最後のチャンスだと思った。

有名になる、
夢を叶える、
スキルを取り戻す、
なぜダンサーになったのかを考え直す、
その最後のチャンスだと思った。

トレーニングを続け、常に信じ続けて、ダンスを止めなかった。


FREE

L.A.に戻って最初の2ヶ月、僕はレッスンを受けた。
と言っても、ただ見続けた。

僕にとってレッスンを受けることは踊ることではなく見ること。
踊っていると見落としてしまうことがはっきり見える。

あとは、レッスンの仕方や、
今のアメリカ人が何を考えているのかを見ていた。
僕のいない間にかなり状況は変わってしまっていたからね。

何が、誰がホットで、ホットでないか。
何が新しくて、何が新しくないのか。
誰が有名で、それはなぜか。
レッスンを見ればそれらはわかった。

TDM

そのとき、どういう理由で彼らは有名なんだと思った?

FREE

ほとんどの人に個性があった。
スキルや見た目じゃない。
振付もとても特徴的だった。

外見がというよりも、
内面がとてもやばいステキな人が有名になっていた。

それは自分には難しいと思った。
でも、理解はできた。

だから、テレビも、ショーも、イベントにも行って、
見られるものはすべて見た。
なにがいいショーで、何がそうでないか、
どれくらいの観客が喜んでいるか、
どういう場にはどういうダンスが合うのか。

例えば、クラブによっては、
スローでセクシーなダンスがいいときもあれば、
パワフルでエネルギッシュなダンスが盛り上がるときもある。
そういう使い分けをする必要があると学んだ。

TDM

ちゃんと、考えてて、偉いなぁ。感心しちゃった (笑)。

FREE

L.A.に戻って1年半経ったとき、僕はひらめいた。
僕は誰であるか、なぜダンスをしているのかがわかったんだ。
そして、懸命に踊り続けた。
トレーニングを続け、常に信じ続けて、ダンスを止めなかった。

そして、Debbie Reynolds Studioで
自分のレッスンを持てるようになった。

最初の生徒は1人だった。
H2Oといって、今は僕のチームの
KLAAMATION CREWの一員になっているよ。

生徒がH2Oだけのときは、
「今日も1人だけど、いい?」と聞くと、
「うん。僕は構わないよ。」
確かに、1対1のほうがたくさん学べて
彼は良かったんだと思う。 でも、僕は寂しかった。

それが、ある日5人。1人。7人。2人。10人。7人。15人・・・。
半年後、生徒は70人になった。
だんだん変わっていったんだ。

TDM

1人から半年で70人になったの!?
理由はなんだったと思う?

FREE

わからないけど、諦めなかったからじゃないかな。

それが2年前くらいで、まだクラスははじまったばかりだから
このまま続けていきたいね。

僕にとって、今、まだはじまったばかりなんだ。

TAiCHiとFREEの出会い。


TDM

では、TaiChiさんにお聞きしていきます。フリーのクルー、KLAA MATION CREWのメンバーということですが、クルーに入った経緯から教えてください。

TaiChi

FREE僕はもともとフリーの生徒でした。

2007年、僕が18歳の頃に渡米したのですが、ダンスが目的ではありませんでした。ダンスはしていましたが、いわゆるダンス留学ではなかったんです。

ダンスのレッスンはたまに受けるけど、語学学校に行きつつ、遊んでいる生活をしていました。

まだデビーの存在も知らず、
たまたまミレニアムにレッスンを受けにいったときに、
フリーが誰かの代行をしていました。

赤文字で“FREE”と書かれていたので、
最初は「このクラス、ただで受けれるのかな〜」と思ってました (笑)。
そのときたまたま一緒にいた友達に聞いたら
「フリーっていう人だよ!」と聞いて、そういうことかと (笑)。

そのときはレッスンを受けなかったんですが、
レッスンを見たら、ミッシー・エリオットの曲で
すごくかっこいい振付で、もともと、ポッピンは好きだったので、
「何だこの人!?この振付は習いたい!」と思いました。

ほかのポッピンのクラスもありましたが、
なんだかやりたいことと違ったんです。

「あの人、どこにいるんだろう?」って思って調べたら、
デビーっていうスタジオで教えていると知って、
「これは、行こう!」と思って、それで通いはじめたんです。
それは、2008年くらいですね。

おそらく、フリーは最初に僕を見て、
「誰だ、この日本人!英語もしゃべれず
踊れないのにやたら食いついてくんな〜。」
って、思ったと思いますよ(笑)。

その年に日本に行くという話を聞いて、「なんで?」と聞くと、 「GANGSTA BOOGIEっていうイベントを毎年やってるんだ。」
と聞いて、これは出たいと思いました。

オーディションを受けて、何とか本当にギリギリなところで
合格をもらえて、そのときにはじめてフリーに扱かれました。

すっごいきつかったんですけど、
「俺はこれをずっとやっていこう。」と思い、
アメリカに戻ってからも、フリーのクラスを受けていました。

そのうち、フリーがちょっとした仕事、
お金も出ないような軽い仕事で僕を誘ってくれて、
それから、だんだんいろんなことで誘ってくれるようになりました。

当時のMySpaceでフリーが
KLAAMATION CREWのロゴを乗っけていたので、
「あのロゴ、何?」
「僕のクルーのロゴだよ。」
へ〜、フリーがクルーを作ったんだ、と思って、
「誰が入ってるの?」って聞いたら、
「H2Oと●●と、●●と、、、TaiChiも入ってるよ。」
「え!?俺も!?!?」って (笑)。
それで、入ったって感じです。
本当に、最初は生徒からはじまりました。

TDM

TaiChiくんから見て、フリーの魅力は?

TaiChi

最初は単純なスキルです。
あとは、曲。
ポッピンじゃない曲でポッピンをやってるのが、
みんなは「なんで?」って思うところを、
僕は「新しい!」と思いました。

そして、今では、単純な振りとか、
ダンサーとしてのスキルの高さだけではなくて、
ひとつのショーに対して、振付から、構成から
すべてクリエイトしていくストーリーが
ゼロからはじまって、しっかり10で終わる、
起承転結のようなクリエイティブがある。
そこは僕も見ててすっごく勉強しています。

TDM

日本人へのケアに対してはどう?

TaiChi

FREE日本人のことは好きなんだなと思います。

僕や周りにいた日本人に対しても、L.A.のいろいろな場所に案内してくれました。L.A.に来たら、ここに行かなきゃ!っていうところを押さえてくれます。

いろんなL.A.を知ってほしい。


TDM

L.A.ツアーは、どうして始めようと思ったの?

FREE

海外のダンサーがロスに来たときにいい環境を与えてあげたいと思ったんだ。2003年からだね。

TDM

案内する上で意識していたことは?

FREE

L.A.とは何かを、全部知ってもらうこと。

だいたい、ダンサーがL.A.に来たら、
レッスンを受けて、ダンスイベントに行って
ハリウッドだけで過ごす人が多いと思う。

でも、L.A.でおいしいピザ、ホットドック、
タイ料理、クラブ、アーティストが撮影したロケ地など
いろんなL.A.を知ってほしい。

TDM

これからのフリーの夢は?

FREE

FREE一番は世界中でNo.1の振付師になることだね!あとリスペクトされる振付師にもなりたいと気づいたんだ。

近々だと、ユーガットサーブと同じディレクター制作で、2012年春公開のキッズ版ヒップホップダンス映画「バトルフィールドアメリカ」の仕事を終えたばかりで、企画中のオマリオンとのプロジェクトを成功させたいし、KLAAMATION CREWも頑張っていきたいね。日本でも広めていきたいと思っているよ。

TDM

またフリーが踊っていると聞いて嬉しかったので、
今日いろいろ聞けて良かったです。ありがとうございました!

FREE

こちらこそ!たくさんしゃべってごめんね (笑)。
'11/12/15 UPDATE
interview & photo by AKIKO


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